1965年生まれ。自身の存在、在り方の疑念から仏教、哲学、心理学の研鑽を積むも疑問は深まり、2014年啓示により本格的な心(精神)の探求に専念する。6年間の修養によって覚りを得る。現在「灯り会」を主宰し、現代における新しい覚り(気づき、目覚め、自覚する)と、その道を指し示す。
宇宙から地球をみた宇宙飛行士の一部は、地球に戻ると宇宙飛行士を辞め都市生活を離れ自然のなかでの暮らしを選ぶそうです。その理由は地球の美しさに感動したからではなく、自身が生命の一部、自然の一部であったと気づくからではないかと想像します。
私たち人のほとんどは地球に住みながら、外から地球を見ることはありません。
私たちは地球がどんなものかと問われれば、自身の足元の大地を指して、これが地球だというしかないのです。
この説明は、自身の説明をするときも同様です。自身に触れ、これが私だと言います。
しかし、少し違和感があります。これは私の身体であって、これが私のすべてだと思われるのは嫌だなという感覚です。では、宇宙飛行士が自身が地球の一部であったことを認識したように、全体としての私を見るにはどうすれば、よいのでしょうか。
その答えは、古代から東洋に伝わる瞑想や禅という取組みです。そして私の全体をみる、私の全体にたどり着く道なのです。
私たちが普段の生活のなかで使っている意識は、表層(あかるい意識)のものです。どちらかと言えば外向き、社会用の意識です。人は、この意識だけで“普段の私”が成立していると感じています。しかし、そうではありません。では、実際にその他の意識とはどういうものがあるのでしょうか。一つは、無意識(くらい意識)です。そこには情動が潜んでいます。さらに深い意識の層も存在します。私たちは気づいていませんが、(あかるい意識)と(くらい意識)は普段から交流しています。ある意味では本当の私を支配しているのは(くらい意識)の層であり、さらに先の意識の層です。
インドから中国を経て日本に伝わった瞑想や禅は仏道の修行として広まりましたが、その後は芸道、武道、茶道、華道などにも取り入れられていきました。日本人であれば大抵の人はわかるように、これらの道と名の付くものの目指す到達点は身体技能を超えた心(精神)の高み(深み)です。
その域に達した歴史的有名人をあげれば、能楽の世阿弥、剣の宮本武蔵、柳生但馬、お茶の千利休等々数多く存在します。そして瞑想の本流を組む仏教界では、空海や道元、白隠にも修行の在り方、道の在り方が見えます。彼等は各々に違う道にありながら、目指す到達点は同じです。方法も同じです。その方法とは身体を「型」に繰り返し合わせていくとやり方です。
私たちは、そもそも生命なのですから、外からのプログラムで動くわけではなく、生命の体験を持って内からの発動によって生きています。これは特に新しい生命の戦略などではなく、未知の環境に向かって生き延びるために、生命はずっとそのようにしてきたのです。
未来や外の世界はいつも不安定で、私たち生命は全体として生き延びるための工夫をごく自然に主体的に行ってきました。私たちは突然にこの時間、空間に発生したわけではないのです。そこには、従前に受け継いだ多くの遺伝的体験や他の多くの環境や生命によって生命を維持しています。無意識には自身が生まれてからさまざまな体験も埋め込まれています。
それら自身の内にあるものと私たちは定期的に回路を開き意識を向け、つながっていく必要があります。
そして、これこそが生命として生きるうえで唯一過たない道です。
本来、私たちはこの世のあらゆる外の世界を知りたいと渇望するように、自身のあらゆる内なる世界を知りたいと渇望しています。外の世界をひたすらに追いかけるという西洋的近代自然科学が一方にあるならば、内の世界をひたすら探求し続けてきた東洋的伝統自然哲学がもう一方にあるのです。
いわば、この250年ほどは西洋的近代自然科学が世界を席巻してきた時代でした。それは物理的な信念、思考、方法を基に推し進めてきたわけです。その影響は生理的な分野や心理的分野まで及びました。ところが、結果的に言えば、生理的な分野からは生命倫理的な問題が、心理的な分野からは道徳的な問題が問われることになっています。
当然なことながら生理的な分野には生理的な理法が、心理的な分野には心理的な理法が必要なのです。生理的な分野も心理的な分野も機械(物理的)のようにはいきません。
覚りの修行は、生理的(身体)と心理的(精神)の両方にまたがり、全体につながる道です。
灯り会は、その問題に取り組む個々人の修行を支援、応援するために設立した集まりです。
行動を起こすことは、それ自体がすでに覚りの一つかもしれません。