© 2024 Akari-Kai.

よくあるご質問

覚りとはお釈迦が到達したものですか?
灯り会の覚りに到達点があるとすれば、それは釈迦の涅槃と同じものです。
しかし、釈迦や仏教の禅の境地へ真っすぐに向かおうとする姿勢とは大きな違いがあります。彼らは出家し山に籠り、他人や社会との関係性を遮断し自身と向き合っていきます。一方、私たちは、普段の暮らしの中の他人や社会との関係性を含め、その中で自身と向き合っていきます。出家した修行者が24時間365日覚りとはなにかを探り、悶悶と過ごすのとは違い、灯り会では日々の暮らしの中から気づき、目覚め、自覚していきます。修行に就いて最初から小さな覚りに満ちています。もちろん、大きな境地には概ね区切りとなる段階はありますが、その前に自我を支える思考、感情、観念、信念に徹底して気づいていきます。自身の内に気づきが起きなければ覚りもまた起きません。外への観察よりも内の観察のほうが重要となります。
灯り会の覚りの道は、伝統的な仏教などとどう違うのですか?
仏教は釈迦が始祖ですが興ったのは西暦500年前のことです。インドのヴェーダ(ウパニシャッド哲学)はさらに前です。中国の老子も釈迦よりも古いといわれています。キリストは2000年前の人。それ以前にユダヤの旧約聖書は存在していました。ここで指摘しておきたいのはこの歴史のなかでイスラム教も含め、それぞれが影響し合い混ざってきたということと、それぞれが絶対的なものではないということです。絶対的というのは釈迦の教えにしろ、キリストの教えにしろ、始祖オリジナルのものというのはほぼないのです。それぞれの弟子たちの解釈によって異なりその主張によって分裂し、ときの政治的な目的も加わり分裂がおき、それぞれの流派の教えが成立してきました。
重要な点は、そこに本質的かつ普遍的な真理が存在するのかという点にあります。要するに宗教の違いや哲学の違いを超えて、言い換えれば時間(歴史)や空間(地域)を超えて、人種、部族や個人を超えてそれは自覚できるものであるかという点に尽きます。
日本では一般的に仏教は一括りに扱われますがそれは間違いです。修行の方向性が180度違う宗派があります。例をあげれば他力と自力などですが、問題はその違いをみて正しさを選択することではありません。そのエッセンス(本質)を覚ることです。
灯り会は伝統的な東洋哲学の思想や仏教の影響を受けていますし、目指す境地もおそらく同じです。しかし、入口も異なれば。進み方もおそらくまったく違います。 灯り会の覚りはけっして遠くにあるものでも、日常の暮らしから離れたものでもありません。
灯り会の修行とは、どのようなものなのですか?
私たちは主観的なものの見方と客観的なものの見方という視点があるという教育を受けてきました。しかし、この視点にこそ疑念があります。そもそも私の観念や信念といったものはどこからやってきたのでしょうか。名はあなた自身を現すものなのでしょうか。まずは今の私と向き合うことから修行は始まります。あなたの思考、感情、行為といったものは、どこから発生しているのか見つめていきます。日常の暮らしに瞑想を取り入れ、観照という視点を持つことで、今まで開いていなかった目を開きます。そうすることで気づき易い体質に変わっていきます。気づき、目覚め、自覚する。どこまでも自身の取組みです。この取組みによって囚われていたあなたの心が自由になっていくのを感じることができるはずです。月例会は参加してもしなくても構いません。月例会は人によっては修行を加速させてくれる可能性があることと、ある意味では孤独な修行を分かち合う場とお考えください。
ここでは修行の入口についてご説明しましたが、入口ですから先があります。次のステップは一般的に覚りと呼ばれる領域へと進みます。それでも、取組みそのものは変わりません。日常の瞑想と観照が修行の軸となります。ご飯を食べるように、睡眠をとるように、洗濯をするように毎日刻々と修行という道は続きます。しかし、簡単なことほど続けるのが難しいものです。それでも私=心が生ものである以上は腐らないように手入れをする必要があるのです。
灯り会は宗教ですか?
人は分類して名を付けると分かったような気になります。信仰は古くから全世界のさまざまな民族、部族に存在し、それはいわゆる霊性や神性と呼ばれ自然を支配する見えない力に向けられていました。これは人も自然の一部から成り立つことを考えれば自然なことです。
しかし、ここに人が関わるとややこしいことになります。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の神は一つなのに預言者が違うだけで争っています。日本においても神と仏は別物です。面白いことに神は争いませんが、神社には系譜が存在し、釈迦は一人ですが仏教には様々な宗派が存在し自身の正義を掲げ時に争ってきました。世界的にみれば宗教は争いの種になっています。そんな宗教に意味があるのでしょうか。灯り会はそこに名を連ねるような真似はしたくないのです。会員一人ひとりの修行によって心が花を咲かせ、実りあるものになることのみが願いです。一人ひとりの意識が高い次元に至れば、やがて争いの無意味さに気づき、人々は手を携え世界は真の平和と繁栄を手にできるでしょう。
灯り会はどんな人に向いていますか?また、どんな人が向いていませんか?
自身の人生をよりよく生きたいと願う人々です。自身の人生をより満足のいくものにしたいと願う人々です。自身のことを真に理解したいと願う人々です。自身の人生を自身の力で切り拓いていきたいと願う人々です。自身の心(精神)を磨き、自身を向上させたいと願う人々です。自身の中から執着、差別(偏り)迷いを無くし、すっきりと前を向きたいと願う人々です。
国、会社、誰かが自身の人生を豊かにしてくれると考える人々、見えない力やカリスマ的教祖のような人が自身の人生を救ってくれると信じる人々、自身に起きるすべての出来事は他者の責任だと考える人々、お金が自身のすべての問題を解決してくれると信じる人々、他者を差別や排除することで自身が幸福になると信じる人々、灯り会に入れば自身が幸せになれると考える人々。
このような人々に向き不向きがあるように感じます。

覚りの境地を目指して

行動を起こすことは、それ自体がすでに覚りの一つかもしれません。

体験会について

灯り会へ興味を持っていただいた方、またご入会いただく方は、まずは最初に体験会へお越しください。体験会のご案内、ご説明はこちらからご確認いただけます。

テキストDL

私、一成の14年におよぶ修行の体験談を綴ったテキストPDFを即時DLしていただけます。比較的深い内容となっております。人生をより良く生きたいという方のヒントになるかもしれません。無料ですので是非一度目を通してみてください。

ページアップ