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信仰と文明社会において宗教が必要とされない理由について考えてみる

2019-01-25

写真家の野町和嘉さんの【地球巡礼】という写真集には、世界を代表する宗教(キリスト教、イスラム教、仏教、ヒンズー教)の信仰に生涯をかける人々の姿がそこにある。

現代の私たち日本人には想像できないほどに、その信仰は過酷で一途なものだ。しかも、伝統は1000年、2000年という時を経て脈々と子孫に引き継がれてきた。

彼らの信仰は、まさに一生を神に捧げる命がけのものだ。サハラ、チベット、インド、エチオピア・・・砂漠の中で、高原で、インダス川のほとりで神への祈りは続く。

過酷な自然環境で生きる彼らは、人間の力が及ばない世界が存在する瞬間を確かに人生で何度も味わうのだろう。姿は見えないが大いなる力を持つ存在への畏怖がある。

祈りは、今日の命があることへの感謝であり、明日も無事であることへの願いである。彼らは神の僕(しもべ)であり、神なくして自らは存在しないと信じている。

さて、鑑みて西欧文明の中に生きる私たちと宗教を考えてみると、特別な信仰を持つ人々を除いては、そこに彼らのような一途な信仰の姿をみることはない。

日本に限らず、アメリカやイギリスにおいても、一般的な人々の間では宗教に対する情熱は下がり続ける。

考えてみれば、西欧文明に感化された私たちが信仰するものは神でも、仏でもなく近代科学であり、資本主義経済であり、貨幣そのものである。

非文明国である彼らが信じる神という存在にしろ、西欧文明のなかで信じる貨幣にしろ、神という存在を見た者ものも居なければ、貨幣にしても、ただの紙切れであり実体はない。

しかし、神は富めるときも、貧しいときも、祝祭のときも、苦難のときも彼らとともにあるが、貨幣はその価値を失えば、まさにただの紙屑である。

アメリカや日本において、キリスト教や仏教の衰退が激しい理由は明らかである。キリスト教の団体も、仏教の団体も経済に踊り、権益に踊ったからに過ぎない。

日本では、この現象を理解することは容易い。例えば、人が亡くなった葬儀においては、多くの場合、〇〇宗の僧侶が経をあげて成仏を唱える。招く側は、安くはないお金を負担する。

年初においては、初詣に神社、寺院を訪れる人々が多いがそこでは、祈祷やお賽銭というお金を投げ入れる行為で幸運を願い、お札やお守りという幸運グッズが販売される。

これは最早信仰とは言えない。幸福になるためというのは体裁であり、おそらくは、このようにしないと不幸を招くという伝統的な刷り込み行為による体のいい集金活動である。

庶民の側もバカではない。「三途の川も金次第」とは古くからある。皮肉を込めたことわざで、あの世にいくのにも、坊主に包むお金の多少によって違うという侮蔑を含む嫌味だ。

仏教寺院の消滅が囁かれる日本では、仏事にはとにかくお金がかかる。そのような仕組みを築き上げた神党や仏教が何を目指したのか・・金の切れ目が縁の切れ目となる日も近い。

文明国、先進国における人々は、投資しても何の見返りもない存在に幸福や幸運を委ねるよりも、現実的なモノやサービスによって満足を手にするほうを選ぶようになった。

人々が死や病、人生の運、不運について、その差配に神や仏が関わっていると考えるのは人間としてはむしろ自然なことではないだろうか。

しかし、死や病のメカニズムが透明感を増す毎に、それを扱う分野の分担にも変化が起きてきた。

現代の先進国の人々は、神や仏にお金を投資するなら、自らの健康のために健康食品や薬、予防のための医学にお金をかけるという選択をするだろう。

さて、野町和嘉さんの写真に登場する信仰の人々が信仰する神や仏と、私たち日本人が信仰してきた神や仏の本質的な違いは何か。

それは、「人生を〇〇と共に生きるか」ということになる。この〇〇なかに入れるものは自身で見出されなければ意味がないものなのだ。

はたして、この〇〇の中に入れるものは、何なのか。これこそが信仰となる。ちなみに、キリストと釈迦は〇〇のなかに入れたものは違う形をしていたようだ。



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