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私たちの心へ影響を与えてきた宗教について1

2018-11-03

私たちの心、精神について考えるとき宗教について触れないわけにはいかない。
宗教はなぜ生まれたのか。
宗教学者の人々は、宗教遺跡、遺物の発掘や古文献を分析し、先祖崇拝や自然(太陽、洪水、落雷など)への畏怖感を宗教の起源だとする。

自分たち一族の始祖、代々の祖先たちという存在。また脅威でも恵でもある自然。
自分たちを支配する目に見えない力に強い畏怖と崇拝の念を抱くのは当たり前のことで、八百万神の所以である。

日本を代表する天照大神は現在伊勢神宮に祀られているが、それより以前には檜原神社にあったといわれている。
檜原神社は、三輪山の山中奥深くにある巨石群をご神体にしていて、三輪鳥居奥には神
籬(じんり)と呼ばれる神様がやってくる場が容易されている。

そこには、拝むべき神殿、像つまり形あるものは何もない。礼拝する「相手は」そのものが、その空間であり、そこに立つと、「相手」のただ中に自分が立っていることに気づく。
神はつねに、空白の場所にやってくるが、しかし姿は見えず存在も認識できない。
まさに、神は無限の存在である。

人間は、肉体的にも身長170センチ、体重65キログラムという有限の大きさを持つ。
言い換えると、有限の大きさしか持たない。命についても同じ。有限である。
有限である人間が、無限の力よって宇宙、自然、生命を操る神という存在を表象した。
ゆえに、神をみた人は一人としていない。

人間にとって、死は生命の有限を示す絶対的な虚無である。
人間にとって死は、自分が消滅するという恐怖、絶対的な虚無の中に自分が消えていくという恐怖である。
この死の恐怖から逃れるため、死への対抗として宗教は生まれた。

キリスト教では、人間は「人祖」アダムとイブが神の禁じた木の実を食べるという罪を犯し、
その結果、死ぬ存在になった。と考える。この罪を原罪と呼ぶ。
人祖が犯した原罪だから、何人も死は逃れない。
しかし、悔い改めてイエス・キリストに従えば、永遠の命を受けることができる。とする。

仏教には、本来の釈迦が説いた「すべての人に仏性がある」とは別に、大日如来、阿弥陀如来などの絶対者を設定し、それにすがるようになる宗派が現れる。
こちらも、死の恐怖への対抗としての宗教である点においては同じである。

ちなみに、キリスト教においては、神に召されものだけが天国(ヘブン)へ、密教、浄土系の仏教においては、選ばれた者は極楽浄土が保証されるという死後のご褒美があり、そこは永遠、つまり無限の命の世界が繰り広げられるという点も同じである。

冒頭で書いた宗教学者による宗教の起こりは先祖崇拝や自然への畏怖の念であるという主張は確かにその通りである。
他方で心、精神という観点からは、神を描いた起因は死と死後への“恐怖”“恐れ”からであるといえる。

現世を生きる私たち世界を支配するあらゆるシステム(宗教、国家、企業、資本主義経済)の根本が、“恐怖”というパワー、動力によって構成、成り立っていることを考えれば、
そのスタート地点の動機から、愛に満ちた世界、平和で安穏な世界が表象、実現されるはずはないと考えるのは、私だけではないだろう。

いま世界の覇権を握る西欧の心、精神を支配するのはキリスト教が中心の国々である。
これは国家、企業、そして個々人が生きるうえでの観念、信念、価値観、学問や教育といった分野、国家運営のイデオロギー、科学技術の開発や運用、文化まであらゆるところへ影響を与えている。

宗教の根本的な誤りは、神を人間の外へ分離しておいたことであると指摘しておきたい。



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