2018-09-02
多くの人は、自分の頭とか心情で捉えている自分の映像を自分だと思っています。
しかし、よく考えてみると自分が頭の中に描いている「自分」は、描かれた自分であって、
描く側の自分ではありません。人は描かれた自分の映像のもつ失敗や無能さに落胆し、悲しんだり、自分が嫌いになったりしています。
それは誤解による遊びとも言えます。
哲学者ショーペンハウアーによれば、人間の行動というものは、その人間の本能に根差す内的衝動によって決められるものであって、正確な認識に基づくものではない。両者つまり人間の認識と行動とは関係がないといっています。
オーストラリアの精神科医であったジークムント・フロイトは「精神分析学入門」の中で、
「自我は決して、我が家の主人公ではないのだ」といっていますが、これはショーペンハウアーの著作から影響を受けたものです。
その後、フロイトは夢とノイローゼの研究に没頭し、「自分が自分だと思っている自分は、実は自分の主人公じゃないのだ」「自分の行動決定は、自分が自分だと思っているものが決めているではなく、自分の内部の無意識部分が決めるということを発見し、人間の意識というものを意識、無意識、前意識という三重構造を持つと確信するようになりました。
この説は現在大脳機能の裏付けを得て正しさが立証されています。
いままで自分だと思っていたものは、自分ではなく単に自分の観念が描いた自分でしかありません。人の運命などというものは、その人の心の在り方によって決まっていくものであると考えよいのではないでしょうか。
現在のこの世界は私たち一人ひとりの心によって作り出されたものが現れた結果であると言えます。
「人間は自分の外部に何があるのか、分からない。人間の感覚のところで、外部世界を構成しているだけなのだ。人間の外部には物自体というものがあり、それが人間の感覚(眼・耳・鼻・舌・身)を刺激して、外部の世界を感覚のところで形成しているだけで、外部に実在しているものを写し取っているのではない。その、物自体とは何ものなのか、それは私も知らないし、知ろうとする必要もない」とカントはいう。
自己、私を知るというのは、感覚によって外部世界の認識を構成している自分の主人公、即ち己の心の本質を探究するということになります。
人類は古来から、自分の心というものとは一体なんなのかについて探究を続けてきました。
西洋では古代ギリシアの哲学者タレス、ソクラテス、プラトン、アリストテレスであり、東洋であればインドのウパニシャッド哲学、中国の老子、荘子あたりもそうでしょう。
最も有名な探究者は釈迦になるのでしょうか。
人生に目的などというものがあるとするなら、それは財産形成でも、生殖活動でも、名を残すことでもなく、自身を知ることだといえます。
行動を起こすことは、それ自体がすでに覚りの一つかもしれません。