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釈迦は何を覚り、何を語ったか3(無我)

2019-03-30

インドの伝統的なウパニシャッド哲学では、「梵我一如」(ぼんがいちにょ)の秘儀が説かれている。

梵(ブラフマン)とは大我(たいが)とも訳され、宇宙全体の究極的原理といったところである。我(アートマン)は文字通り我であり、人間一人一人の自我である。小我ともいう。

すなわち、梵我一如とは「大我と小我を一つにする」こと、宇宙全体の原理と自我を合一させることである。

これを仏教は否定した。なぜならば恒常不変の自我への執着こそが「無明」を生むからである。「無我」は仏教において極めて重要な思想である。

「我あり」との考えを抱く者は、五根(五つの感覚器官)にはまり込んでいるのである。すなわち、眼根、耳根、鼻根、舌根、身根にはまり込んでいる。

雑阿含経には無我を詠んだ釈迦の偈(詩句)が収められている。

世尊は、次のような感興の偈を口ずさまれた。
「我というもののなかりせば
我がものとてはなかるべし
我というものはなかるべし
我がものとてはなかるらん」

比丘がもしそのように確信するならば、彼はよく、人をこの世に結びつける束縛を絶つことができるだろう。

実体のない我に執着することが煩悩を生む。それがさまざまな束縛を生じさせる。その無明を消し去るのが智であり、覚りである。

諸行無常(あらゆる現象に恒常的なものはない)
諸法無我(あらゆる存在に不変の本質はない。「法」は「存在」、「我」は「本質」)
涅槃寂静(煩悩の炎を消滅させれば安らぎの境地至る)

釈迦は実体のない「我」への執着から目覚めよ、と説いた。

現代は「自我の時代」である。自己を確立し、強く自己主張することを称賛する傾向にある。
しかし、よくよく観察してみれば、自身がオリジナルの自分だと思い込んでいる思想、イデオロギー、生き方等々は他者の模倣に過ぎないことに気づく。

私たちは自分自身や人生に意義や価値を見出したいがために、必死になって自身の人生に物語性を持たせたり、出来事や人間関係に意味を持たせたりしているのではないだろうか。

冷静に周囲を見渡せば、自己の独善性をことさらに強調できるほど、私たちはオリジナルの暮らしや生き方を貫いていない。

釈迦が説いた「無我」への理解が、現在の世界を取り巻く様々な問題解決の根底にあることはいうまでもないことであるが、人類は釈迦の智慧を活かすことができない。

自我の力を誇示したいという欲求から抜け出すことができない。肉体や知識、収入や財産、地位や学歴、国も同様で経済力、軍事力を競い合い誇示する。

釈迦の時代の嘆きも、現代の嘆きも大きな差はないのかもしれない。2500年を経ても人間の心、精神の成熟は達成されていない。むしろ後退しているように見える。

参考図書 : つぎはぎ仏教入門 呉智英著



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