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私のなかの私とは誰なのか

2018-08-13

私とはどんな人なのか他人に理解してもらうのは困難なことだ。
社会的な私は、どこで生まれ、どこの学校へ通い、どこの会社に勤めているのか、現在どこに住んで、誰と暮らしているのか、好きなこと、得意なことは何かというあたりのことは履歴書と同様に伝えられる。
しかし、これらの情報だけで私という人間が理解されたとされるのは、不満を持つ人が多いはずだ。

広義な意味で社会的な関係ではない両親、兄弟姉妹、親友に関してはどうだろうか。両親や兄弟姉妹は、ほぼ生まれたときからのあなたを知っているわけで、あなた以上にあなたを知っているともいえる。親友はどうだろうか。幼い頃から付き合いのある親友は確かに、あなたの人生の多くを知っているかもしれない。
それでも、両親、兄弟姉妹、親友があなたという人間のことを知っているといわれると、やはり違和感があるだろう。

さて、自分自身はどうだろう。私は私のことを知っているのだろうか。
自己認識。自己観察。自己探求、自己発見という表現がある。この表現からすれば私たちは自己、本当の私(?)について十分に理解していないことになる。
また、私たちは「内語」つまり自身に話かけるということを日常的におこなう。
これらの事実からすると、自分は二人存在していることになる。

他者として語りかけ、また語りかけられている自分とは、自分にとっての自分なのだろうか、他者なのであろうか。この問いは悩ましいもの。

精神科医の木村敏さんはこの問題を自己の自己性について次のようにいう。
私が私であるという場合、そこにはすでに私としての私という形で、ある種の外部性と間接性が入り込んでいる。ここで二度出てくる「私」は決して無意味な同語反復ではないし、同じ語を二回言わなければ私の自分自身との同一性を表現できないのは、単なる言語的表現の不如意さのみから来ることでもない。そうではなくて実際に、自己の自己性は二つの異なった私の同一、同一の差異からしか現れてこない。その場合、一方の私はもう一方の私にとって他者の立場に立ちうることになり、自己の自己性についてこの内部的他者による認知ということも当然いえることなる。自己の自己性とは言いかえれば自己自身による自己認知のことだといってもよい。

個人主義は科学的世界観なしには成立しなかった。ここ数百年のことである。それ以前に
自分というもは自明ではなかった。
ちなみに、科学的世界観の流れのなかでフロイトの精神分析がうまれ、哲学が源流である心理学も誕生した。
自我というものは、西欧的、科学的な価値観に基づくもので人類の心、精神、魂という曖昧ではあるが確かに人間であれば多くの人が感じる直観、感覚を含めた全体性を捉えていくうえにおいては多くの問題がある。
目に見える世界、測定できるもののみが正しいと信じる現代科学信仰はどうにも無理がある。今、世界的に広がる人間社会の倫理観の荒廃の主な理由だ。
言い換えれば東洋の西欧化の進行であり、そもそも人間的に豊かであった東洋の精神性が失われつつある結果といえる。

私と私を捉える方法は内省しかない。継続的に自己観察するという習慣による以外はない。



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