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伝灯記

人生とは心の出来事

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2018-07-24  約1073文字

私たちの多くは、たとえ漠然とにせよ、自分の人生について、「こうでありたい」「このようであるだろう」といった期待や予想を抱いている。
しかし、それらが、その意味では残酷といえるかもしれないアクシデントその他で失われることによって、自分は本来何ものでもなく、人生も本来は何でもありのものだったと思い出す。
それは、ひとつの解放である。なるほど、それを生きているのはやり自分でしかないのかもしれないけれども、生きられている物語を自覚的に生きることで、人生は生成する物語それ自身と化す。

悲しみを悲しみ、喜びを喜ぶ、感情は物語を読むことに似てくる。しかし、悲しみを悲しみ、喜びを喜ぶとは、じつは人生の本来のありようのようなものではなかったろうか。虚構と知ることよって真実を知るとは、これもまたいかなるいたずらなのか。
しかし、人生と世界とは確かにそのようなありようをしている。出来事はある意味では客観だが、生きられる物語と捉えれば、主観のようでもある。

人生というこれ自体で奇妙な出来事においては、どこまでが主観で、どこからが客観なのかをいうことは決してできない。心には外など存在しないのだ。したがってここにおいて初めて、すべてが心である。人生も世界も、すべてが「心の中の」出来事なのだということができる。
私の中に心があるのではない。心の中に私があるのだとは、ユングも行き着いた壮大な逆説である。それは宇宙を全体として包括するものである「魂」という視点を所有することで、心であるところの人生、その複雑さに即しつつ、それを宇宙論的な奥深さのうちに認めることが可能となる。

人生とは複雑なものである。「現実の」出来事や人間関係が複雑なのでは必ずしもない。人生という形式、生まれたから死ぬまで生きているというこの形式に至っては、単純明快、いかなる陰もない。
複雑なのは、難しいのは、心であるところの人生、その複雑な動きをそれとして理解することだ。

多くの人は、心とか、精神で起きている現象つまり思考や感情、考えていることや信じていることが、どこからやってきたものかに思いを馳せたこともないのではないだろうか。なぜなら、それは既にそこにあるものとして認識されているからだ。
しかし、果たしてそうだろうか。
「わたし」の心は思考や感情を支配しているところのもであるのか、それとも思考や感情に支配されている心が「わたし」なのか。
心の出来事に日々振り回されるのが人生であるとすれば、やはり「心とは何か」「何が心であるのか」について捕まえなければ始まらない。



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