2018-11-23
あらゆる宗教が、始祖の教えを受けた人から人へと伝えたる度毎に、その解釈や時には教えそのものの本質までもが変わっていった。
仏教においても変節は甚だしい。インドに生まれた仏教が中国へ、中国から日本へと民族の文化や価値観を通して伝えらえたことが、大きな要因だろうと考えられる。
どのように変わっていったかについては、次の機会に譲るとして、まずは初期仏教において釈迦が覚り、人々が語ったことは何かについてみていこう。
釈迦の思想の核となるものを阿含経典から見ていくと、最も重要なものは、「縁起」である。物事には、原因があり条件があり、その結果がおきる。という思想だ。
※阿含経典のかなりの部分金口直接の仏典、もしくはそれに神話や伝説を加えたものとされる
釈迦は縁起について、雑阿含経の中で次のように説く。
比丘(出家者)たちよ、縁起とは何であろうか。比丘たちよ、無明(むみょう)によって行(ぎょう)がある。行によって識(しき)がある。識によって名色(みょうしき)がある。
名色によって六処(ろくしょ)がある。六処によって触(そく)がある。触によって受(じゅ)がある。受によって愛(あい)がある。愛によって取(しゅ)がある。取によって有(ゆう)がある。有によって生(しょう)がある。生によって老死・愁・悲・苦・憂・悩が生ずる。かかるものが、すべて苦しみの集積によって起こるところである。比丘たちよ、これを縁によって起こるとはいうのである。
「無明・行・識・名色・六処・触・受・愛・取・有・生・老子」を十二縁起という。これらがそれぞれの原因になり結果となって人間の「苦」を生じさせているというのだ。
無明:無知。明るくないこと。迷妄の中にいること。
行:行為。物事がそのように為る力(業)。
識:対象の識別(選別、好悪、差別につながる)。
名色:対象の名称とそれが現れている形。
六処:外界を受け取る六つの感覚の場所(眼・耳・鼻・舌・身・意)。
触:外界との接触。
受:触による感受。
愛:妄執(現代の愛ではない)。
取:執着。
有:生存。
生:生まれ、生きる。
老死:老と死。
十二縁起は2500年前の人が語ったとは思えないほど人間観察に富み、具体的であることに驚く。
縁起論には、仏教的人間観・仏教的世界観が典型的に現れており、人間が外界を認識する仕方が述べられている。
十二縁起を概観すれば、外界そのものより、それを認識する人間側のあり方や仕組みに力が注がれていることが分かる。
阿含経典は次のように結ばれる。「生の滅することによって老死・愁・悲・苦・憂・悩みが滅する。」
無明に起因する執着という生によって人間の苦しみが生まれる。その連鎖こそが縁起なのである。「生の滅」によって「苦」も滅するのである。
ちなみに縁起には因果という類義語があるが、因果が示す意味とは大きく異なることがわかる。
因果とは、西欧の近代科学思想を端的に示す。自然科学にしても、社会科学も多くの研究目的は因果(原因・結果)関係の発見とその応用である。
西洋科学の根底思想である原因と結果というシンプルな結びつきのほかに、釈迦の思想には、その間に目に見えないいくつも働いている様が見えてくる。
参考文献:「つぎはぎ仏教入門」呉智英
行動を起こすことは、それ自体がすでに覚りの一つかもしれません。