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釈迦は何を覚り、何を語ったか4(中道)

2019-04-17

仏教では覚りに至る方法として「中道」が説かれる。

「村の長よ、出家したものは、二つの極端に親しみに近づいてはならない。その一つは、欲望の楽しみに耽(ふけ)ることであって、下劣、卑賤(ひせん)であって凡夫のするところである。聖にあらず、道理にもあわない。
その二つは、自らを苦しめることに専念することであって、それはただ苦しいだけであって、聖にあらず、道理にも合わない。村の長よ、如来は、このいずれにも赴かずして、中道を証(さと)ったのである。
それは、眼を開き、智を生じ、寂静(じゃくじょう)・証智・等覚・涅槃に導く」

楽しみに耽るのでもなく、苦行に浸るのでもない、その中道とはどのようなものか。釈迦は中道を構成する八正道を説く。

「中道とは何であろうか。それは聖なる八支の道である。すなわち、正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である」
正しい見解、正しい思惟、正しい言葉、正しい行い(業)、正しい生活(命)、正しい努力(精進)、正しい一念、正しい精神安定、ということである。

釈迦の生まれ育ったインド宗教の中には激しい苦行を悟りへの道とするものが少なくなかった。現在でも、インドでは自らの肉体を傷つけるような難行苦行に励む宗教者がいる。苦行によって肉体と現世を克服した超越的存在となり、神通力や天眼通(てんげんつう)などの超能力も獲得できると、彼らは信じている。

釈迦自身も若い頃、激しい苦行に励んだことは、よく知られている。自らの経験を通して、苦行という修行が誤ったものであること確信していたのだろう。

人間は肉体が極限まで追い込まれると幻覚をみたり幻聴に襲われたりする。そのネガティブな面を他者が活用するのが拷問であり、洗脳である。
現在の日本にも形を変えて、スポーツの世界、宗教の世界、企業研修、自己啓発セミナーなどにその一端がみえる。

逆に快楽というアプローチをみると、心理学の世界においても、1960年~1970年代の初頭においては苦痛とは逆の世界を薬を使用することで自己超越を体験するということが行われていたようだ。所謂、覚せい剤やマリファナ等々は言うまでもない。
いずれにしても、苦痛や快楽という極端な精神の状態においては「覚り」には至れないということを釈迦は2500年前に説いている。

私自身も、いくつかの至高体験と呼ばれるような不思議な体験を持っているが、その事が釈迦が至った「覚り」に近づいたと感じたこともなければ、その後の生き方や日常の感覚の変化につながったかと言えば、そのような事実はない。
むしろ、その体験そのものに魅了され、至高体験そのものを求め続けてしまう人もいる。

私たちは日常の中に、平常の精神の中に、真理を自覚する他はないのだ。

参考文献 「つぎはぎ仏教入門」呉智英



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