2018-07-28
「おお世尊よ、どうかご立腹されませんように」と若者は言った。「私が申し上げましたのは、世尊と争いを、言葉の上の争いを求めるものではございません。誠に世尊のおっしゃる通りです。意見はまったく重要ではありません。けれどももう一言申し上げさせてください。
私は一瞬たりとも世尊を疑ったことはございません。あなたが仏陀であることを、あなたが目標に到達されたことを、無数のバラモンとバラモンの子たちが求めている最高のものに到達されたことを、一瞬たりとも疑ったことはありません。
あなたは自身の探究によって、あなた自身の求道によって、瞑想によって、沈潜によって、認識によって開悟によって得られたものでございます。教えによって得られたのではありません。そしておお、世尊よ、これは私の考えですが、何びとも教えによって解脱を得られないのです。おお世尊よ、あなたが悟りを開かれたときにあなたの心に起こったことを、
あなたは誰にも、言葉で、そして教えで伝えられることはできないのではないでしょうか。
悟りを開かれた仏陀の御教えは多くのことを含んでおり、多くのこと、正しく生きること、悪を避けることを説いています。けれども、これほど明晰な、これほど尊い御教えもただひとつのことを含んでおりません。世尊ご自身が、幾十万人もの人びとの中で世尊ただ一人が体験されたことの秘密を含んでおりません。
このことが御教えをお聞きしたとき、私が考え、気がついたことでございます。私が遍歴を続けます理由もこれでございます。・・・・決して別の、より良い教えを探すためではございません。私はこれ以上の教えがそんざいしないことを知っているからです。そうではなくて、すべての教えとすべての詩を棄てて一人で自分の目標に到達するか、さまなければ死ぬためです。・・・・・・・・(略)・・・・・」
以上は、~ヘルマン・ヘッセのシッダールタの一説より抜粋~
ヘッセは【車輪の下】で有名だが、このような作品も残している。この会話に登場する仏陀はまさに釈迦をモデルにした人物であり、仏陀にかける主人公は、真理の探究を続けるもう一人のシッダールタである。シッダールタは修行の途中にすでに自ら覚りを得て、多くの信者を持つ仏陀に出会う。仏陀の説法を聞き、どうしても自らの真理探究の道について仏陀に問いたくなった。そのときのやり取りの描写の一部である。
私自身も真理を求め、宗教、心理学、経営者等に教えを乞い、長い時間彷徨という経験をした。シッダールタがここで仏陀に問うことは真理に向かうものにとっては重要なことを教えている。
我々は自らの身体を通して震えるような感動も、失恋の痛みも味わう他に方法がない。真理を覚るということも特別なことではないということだ。
そもそも、教えられたことに答えられるということを、知恵とは呼ばない。
行動を起こすことは、それ自体がすでに覚りの一つかもしれません。