2025-05-23 約900文字
釈迦は形而上学的な存在には興味がなかったと言われている。形而上学とは感性的経験では知り得ないもの。有形の現象世界の奥にある、究極的なもの。簡単にいうと哲学的な思想のこと。では、なにが重要であったか、今ここにおける自分自身の心と身体だ。まさに「いま、ここ、自己」である。
釈迦の悟りとはなにか、なにか気持ちよくなることでも、特別な心の状態になることでもなく正しい姿勢で座ったときの心の状態そのものだという。もし、自分の心の状態に満足できなければ、それは心がまださまよっている。正しい姿勢をとれば、正しい心の状態について話すことはなにもない。すでに心は正しい状態にあるからだ。
坐禅をするときは、いつも呼吸に従う。息を吸うと空気は身体の「中の世界」に入り、吐くときは「外の世界」に出ていく。「中の世界」も「外の世界」も無限だ。両者は一つの世界である。「私が息をしている」という「私」が余計なのです。そもそも「私」というものは存在していない。
坐禅をしていると、いろんなイメージが心を横切る。イメージは起こっては消えていく。さまざまに浮かぶイメージはそのままにしておくこと。コントロールしようとしてはいけない。しかし、これがなかなかに難しい。主なイメージは記憶や心配事である。唯一出来る努力は追い回さず、ありのままにしておくことだ。
曹洞宗の修行は、特定の目標やゴールを持たない。また、特定の崇拝の対象も持たない。なにかを信じることは、自分から心が離れていくことである。そうではなく自分自身へと方向を向ける。信仰ではなく信心なのだ。自由は求めると得られない。では、どうするのか。自由を知ることである。ただ座り、呼吸を感じるなかに絶対の自由を見る(知る)のだ。
少々、強引かもしれないが禅マインドの言いたいことをまとめた。日本の曹洞宗の宗祖は道元である。曹洞宗には鈴木俊隆禅師をはじめ澤木興道、内山興正、現代では藤田一照と禅の真髄を体現している。彼等の生き方は釈迦の教えに世界で最も忠実であることは間違いないことだ。私がいうのも変だが、そのように直感的に感じるものが確かにある。