2025-05-27 約606文字
坐禅瞑想を求める人のなかには、悟りを得たいと考える人も多いだろう。その理由は悟りが普段の私たちにはない特別ななにかをもたらしてくれるのではないかという期待を持つ人も多いのではないだろうか。鈴木老子は、悟りが人生を永久に変えてくれるような特別なものではない。それを「間違い」あるいは「観光的な」修行として否定している。
私自身もゾーン体験、至高体験を過去にしてきた。それらは通常意識では得られないような不思議な感覚であり、いわゆる恍惚感や陶酔状態のような感覚に近い。その感覚意をもう一度味わいたいという誘惑は確かにある。しかし、その感覚を求めことは時間のむだであり意味がない。そういう幸運な体験もあった、という程度でよい。
道元のいう只管打座とは「ただ座る」。瞑想中に浮かぶ思考を抑圧もせず、思考に耽ることもない。言い換えれば思考を追わない。浮かんだままにしておくが、次の展開、次の展開へ発展させない。只管打座とは自分自身であるということ、ただそれだけ。いかなる期待もしないとき、人は私自身でいることができる。
只管打座とは時の一つ一つの瞬間を完全に生きるということ。瞬間とは「指を一回弾く間に何百万もの瞬間がある」というほどの意味での瞬間のことを指す。その一つ一つの時の瞬間に私は存在している。吸う息吐く息に数えきれないほどの瞬間がある。私の意図はその一つ一つ意の瞬間に生きるということにある。