2025-04-10 約939文字
私が通った高校には面白い話がある。高校より南の生徒はのんびりした性格で北からの生徒はそれに比べて性格がキツイというのだ。更にその北の人々の地元の言い伝えとして、お嫁さんをもらうなら南のほうからもらえというものがある。なぜなら穏やかで優しいからだと。
このような傾向は日本全体にもある。東北の人々は忍耐強い。沖縄の人々は大らかである。全国に店舗のある会社の採用に携わった経験から言えば、関東の人材の供給源は北海道、東北であり、九州の南や沖縄の社員は就業期間が短い傾向がある。南の方が気候温暖で比較医的、食に恵まれているからか。
人間は動物であるから気候環境の影響は性格や気性を受けるわけだ。私の地元の小さな地域においても、日本のような小さな国にもこのような現状があるとすれば、当然、世界にも同じような地域による性格や気性の違いが存在すると考えるべきだろう。実際、グローバルサウス(南半球に位置するアジア、アフリカ、中南米の新興国や途上国)という問題がある。
このような、それぞれの地域の気候環境から受ける性格や気質という生命としての価値について評価されることは少ない。日本で言えば東京が日のスタンダード(基準)であり、世界で言えば世界のスタンダード(基準)は現在はアメリカであろうか。為政者たちはこのスタンダード(基準)を握り、世界を、日本を自分たちの価値に均一化させたがっている。
彼等は多様な価値観など実は受け入れ難いのだ。本当は自身の価値観を通したいのではないだろうか。複雑な世界を理解するのは確かに誰でも面倒である。彼らが求める世界はAIや数学が導き出す、ただ一つの正しい答えではないだろうか。大脳が思考する世界ではそれが出来るかもしれない。しかし、生命側は、そんな危険なことを望んではいない。
この地球上に同じ人間が二人存在しないように生命は多様であり複雑であり重層的である。そのような生命的は背景があるから、私たちはそれぞれの環境のなかで創造や想像ができるのだ。均一的、言い換えれば一面的というのは脆弱である。多面的(多様)であればこそ、生命はあらゆる危機に立ち向かい遺伝子を残す可能性を拡げることが出来るわけなのだ。