2019-11-01
知識による欲望の肥大は、どのような結果を招くのか。相対差別の知識は、必然的に一つのものを二つに分け、対立と差別を生みだすが、それが人と人の争いを起こす本になる。知識は一つのものを二つに分けるが自らを善とし、他者を悪とするところから対立をよび起し、それが争いの原因となることが多い。
この老子の主張には誰もが思い当たる節があるだろう。自分を悪とする人はまずいない。多くのとき自分を自然に善においてから、物事を判断する指向性がそもそもある。その本質は現代において自己愛や自尊心と呼ばれる種類のものが自身の内面に働いているからであろうと考える。
老子は知識の本となる学問を否定し、「学を絶てば憂いなし」「聖を絶ちを棄つれば、民の利は百倍す」などという。現代の日本において学問を否定する人はまずいないが、これも一度立ち止まって学問とは何かということを問い直さなければならない時期を迎えていることは否定できないだろう。実際に一般的な日本人の学問は小学校から始まるが学問によって幸福になる子どもよりも不幸に陥る子どものほうが多いのではないだろうか。
知識による欲望の肥大は、どのような結果を招くのか。「五色は人の目を盲にし、五音は人の耳を聞こえなくし、五味は人の口を麻痺させ、馬を乗りまわして狩りをする遊びは人の心を狂わせ、珍貴で得がたい賃(たから)は人の行いを邪悪にする」というように人間の自然で正常な心身のありかたを失わせる。
民衆が盗みを働いたりするのも、もとはといえば知識を持つ上流階級が、そうしたものを見せびらかすからである。だから「得がたい賃(たから)を貴ぶことがなければ、民に盗みをさせることもないであろう。欲しがるようなものを見せつけなければ、民の心を乱れさせることもないであろう」
老子のこのような指摘も現代の私たちには「何を言っているだろう。古い考え方で現代は違う」と否定するむきがあるかもしれない。しかし、それは大きな誤りである。むしろ老子のこの指摘、明察は見事なものである。
現代人は自身の欲望に突き動かされているわけではなく、他者の欲望の模倣することによって生きているといっても過言でない。それは、私たちがモノに対する欲望という視点から見ればよくわかるだろう。
私たちは家、車、洋服、装飾品を手に入れたいという欲望はいったいどこからやってきたのだろう。それは、事によれば芸能人の映画やドラマ、TVCMをきっかけに知識を得たという動機かもしれないし、事によれば憧れの上司や先輩、友人がそれを手にしているのも見てという動機かもしれない。いずれにしも他者の欲望の模倣であることに変わりはない。
さて、私たちはいったい「なに」に振り回されて生きているのだろうか。
参考図書 「老子・荘子」~森三樹三郎~
行動を起こすことは、それ自体がすでに覚りの一つかもしれません。