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釈迦の教えと日本における伝統仏教の乖離1

2019-05-03

釈迦の「覚り」や「真理」に迫ろうとしたとき、必ず突き当たる壁がある。それは日本にある伝統的な仏教を名乗る各宗派の教えの矛盾だ。

世界を代表するユダヤ教、キリスト教、イスラム教は一神教であり、これらの宗教が崇める神は同一の神である。神の教えを伝える預言者の違いはあるが、人間が神に「救い」を求めるという点では一致している。

一方で、釈迦の打ち立てた仏教は自らが覚る「覚り」の宗教である。そこに神は存在しない。
宗教というカテゴリーをみたとき、仏教の立ち位置は異質であり際立っている。しかし、釈迦の教えは正しく継承されてきたとは言えない。

釈迦の教えについて、その全てを無批判で受け入れる気は毛頭ないが、釈迦が人間の生き様を自らの内に求め「覚り」という方向を得て、さらに修行を積み重ね「涅槃」とう境地に達した道は、人間の生き様のお手本であると考えている。

その釈迦の教えの根本を歪曲し、仏教の名を語る仏教宗派に疑念を禁じ得ない。古代の人々がその教えの系譜を誤って受け取ることは仕方がないことかもしれない。なぜなら、正しい教えという情報を知ることが困難な時代だったからだ。

しかし、現代のように情報の流通が容易で、その情報の分析や研究が重ねられた時代においては、仏教の宗派を名乗り、自分たちが釈迦の教えの正当な系譜であると主張するのはあまりにも無理がある。釈迦の教えに混乱を招いているとも言える。

もちろん、日本の仏教のそれぞれの宗派が、それぞれの時代の社会や、それぞれの地域のなかにおいて、ある役割を担い、貢献をしてきたことを否定するつもりはない。それは、それで意味があったことだろう。

とは言え、日本における伝統仏教が如何に釈迦の教えから乖離したものであるかについては明確にしたい。その理由は仏教の宗祖である釈迦の純粋な教えが、やはり人類にとって重要かつ価値の高いものだからだ。

私の興味は、何処までも人間がどのように生きることが幸福なのかという点にある。
その立場において、人が人を支配するという行為に酷い嫌悪感を抱く。一人ひとりの人間は
その生命にかけて権力や仕組み(システム)、他者から支配を受けてはいけない。

人々を支配してきたものとは、原始的なものでは神々、呪術、武力、食料に始まり、近代では、国家(教育)、各法、軍事力、経済(企業)、宗教、科学技術などがある。そして、それぞれは相互関係にあり、それぞれには支配権力が存在する。

支配の一翼を担う宗教の中でも、日本にでは仏教は圧倒的な地位を占める。その国内仏教はいくつもの宗派に分かれている。ところが、いずれも仏教だと主張し釈迦の名を借りる。
ここでは、釈迦の教えとどれぐらい乖離しているのか、その実情を代表的なものだけ順番にみていきたい。



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