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伝灯記

釈迦の教えと日本における仏教の乖離4(禅系)

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2019-07-13  約1213文字

禅とはサンスクリット語の「ジャーナ」を漢字に音訳した言葉である。ジャーナとは瞑想のことでありインドでは古くから宗教的修行の形として広く行われてきた。また、「禅」という字は示す編が付くように支那(中国)でも宗教的な意味を持っていた。

禅宗は釈迦の修行スタイルである瞑想、すなわち禅を修行の中心に据えているためか小乗的な独覚性があるためか、釈迦の修行を直接に受け継いだと勘違いされがちであるが、禅は完全に支那(中国)起源の仏教であり、あくまで大乗仏教の一つに分類される。

禅宗は格義仏教の影響を大きく受けている。格義仏教徒とは、他の教えと、その義を格するということ。比較しながら理解しようとするものだ。インドのサンスクリット語で書かれた経典を支那の言葉に訳し理解するために取られた形であった。

具体的には、般若心経の「空」は老荘思想の「無」で説明され。「涅槃」が「無為」に、「菩薩」が「道」にといったふうに置き換えられた。その後、老荘思想を利用しながらも仏教本来の思想を忠実に把握しようとする動きの中で、格義仏教は5世紀頃に役割を終えた。

このような流れのなかで、禅宗は老荘思想の特に荘子の影響を大きく受け独自の発展をすることになった。そのため他の宗教や仏教の他の宗派では想像することすら憚られる思想すら持つ。

それは「無門関」の「趙州狗子」(じょうしゅうくす)にもみられる。以下。

「関将軍の太刀を奪いえて手に入るるがごとく、仏に逢(お)うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、生死岸頭において大自在を得、六道四生のうちに向かって遊戯三昧ならん」
(覚りを得ると、あたかも英雄関羽の太刀を奪い取ったようなもので、仏に逢っては仏を殺し、祖師に逢っては祖師を殺し、生死の境目で自由自在、どのように生まれ変わっても遊戯三昧、となるのだ)こんな具合である。
※冒頭の一説は、現代語訳では「覚りを得ると」と初めの部分を補ってある

しかし、禅宗は知的で、しかもその論理が西洋の論理とは異種異質であるために、西洋の哲学者、心理学者で禅宗に興味を持つ人々は多い。禅宗の一つである曹洞宗は禅センターなどによってアメリカで確実に勢力を持っているし、マインドフルネスの原型はまさに禅のスタイルそのものである。

ところが、禅宗は大乗仏教の他の宗派と比べると「慈悲」を導きにくい。禅によって自分が覚りを得たとしても、それができない衆生はどうするのか。無明の中にうごめきながら生きるより仕方がないことになる。

この点で禅宗は小乗仏教的である。「それが悪いのか」という問題に再び突き当たる、つまり仏教の根本分裂の問題に立ち帰ることになる。つまり、釈迦の唱えた仏教は「救いの宗教」ではなく、「覚りの宗教」であったという事実にである。

参考図書 「つぎはぎ仏教入門」~呉智英~  「荘子」~福永光司~



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