2025-06-07 約645文字
曹洞宗の藤田一照さんは瞑想と坐禅の違いを次のように言っている。「恰好は似ていますが、コンテンツ(内容)もコンテクスト(文脈)も全く違います。瞑想には煩悩を払うとか、集中力をみたいな何かの能力を磨くとか、そんな人間的な目的があるでしょう。坐禅はそんなせせこましいことのためにあるんじゃないというのが曹洞宗の坐禅の理解の仕方なんです。」
さらに、「曹洞宗の坐禅は一般的に理解されていない。坐禅は精神統一をしているんだなとか、無念無想になろうとしているのだな、とか思われているでしょう。そういうのはあくまでも人間が人間のためにやっている人間業です。スポーツのエクササイズと変わらないじゃないですか。坐禅は人間が人間を超えて仏をやっているんです。」
「仏道をならうといふは自己をならふなり。自己をならふとは自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり」『(正法眼蔵)現成公案』。曹洞宗の宗祖である道元の悟りに関する有名な言葉である。藤田一照も正にこのことを言っておられるわけである。座ることが、仏の姿であり=悟りの姿であるというのだ。
この意味が直感的にわかるということ、そのものが悟りであると言っても過言ではないだろう。お釈迦様が言わんとした真の悟りの意味も正にこのことだろう。私も座り始めてから先達の書物にあたり右往左往、ときに七転八倒しながらお釈迦様に導かれるように自然にそのようになっていった。坐禅は目的に向かう行為ではない。それは目的そのものなのだ。