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伝灯記

運が良い人生、悪い人生はあるのか

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2018-08-04  約1178文字

運を上げる、運気を上げることに努力する人々が古今東西を問わずにいる。
日本の気学も歴史が古いものではないが運気をあげる方法として方位とりなどがある。簡単にいえば、その時々の日時によって吉凶の方角があり、吉の方向に出向くことで運をあげるというものだ。
果たして、このような行為によって運とはあげられるものだろうか。

そもそも運が良い悪いとは、どのような対象に対して向けられているものであろうか。
それは人生そのもの向けられているものか、現在の状況に対してのものなのだろうか。
その時は、なんと自分は運が悪いのだろうと思えたことも、その後は、その事がきっかけになって素晴らしい幸運を招いたと思えることは往々にしてあるものだ。

例えば、現在の日本において当たる確率が低いと言われているギャンブルの一つに宝くじがある。もし、この宝くじに当たったとしたら、本人をはじめ周囲の人々も口をそろえて
「運がいいな」と言うだろう。
ところが、いっぽうで宝くじに当たった実に9割近い人々が、その後不幸な人生に巻き込まれていくという事実を知るとき、それは必ずしも運が良かったとは言い難く思えてくる。

これだけではない。たまたま生まれた家が貧しく食べることにも、学ぶことにも苦労した人が、その環境に立ち向かい大人になってから社会的に偉大な貢献をした例は数え切れないほどあり、逆に俗福な環境に生まれ、なに不自由なく育ちながら、その環境を活かすことが出来ずに財産を失うことや、どのような事に取り組んでも満足な成果を残せないということもある。

さて、陽明学者、思想家である安岡正篤は「運を高める」と題して、どうすれば運がよくなるかというテーマについて、次のように述べている。
「人間は深い精神生活を持たなければ、本当の意味の形相・色相は養われない。結局、運というものは相に現われ、相がよくなれば運もよくなる。しかし、運を良くしようと思えば、結局、心を養わなければならない。心を養うということは学問をするということで、したがって本当の学問をすれば人相もよくなり、運も良くなる」と言っている。

安岡正篤がいう学問とは、現代のいう学問とは意味が異なり、単に知識習得を指すものでない。本当の学問とは普段の暮らしの中の見聞やら、人に接するに際して接し方、心がけというもの、つまり生き方そのものを示す。もちろん、自身の深い精神生活とは瞑想のような孤独な時間のことも含むのだろう。
自身の精神を高める。つまり内なるものを高めることによって形相・色相といった外部に現われ、外部に良い影響を及ぼし、それが再び自らへ良い形で現れると指摘する。

運は運ばれてくるものではない。運は訪ねまわるものでもない。もちろん、運は外にあるものではない。運とは自らの心、精神生活によって作り出されるものである。



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