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分類するという方法で人を知ることは可能なのか

2018-08-21

さまざまな方法によって人間は人間を分類することで理解しようとする。
男性、女性という分類、老人、中年、青年、子どもという分類、出身地という分類、学歴という分類、家柄という分類、職業という分類、文系、理系という分類、宗教や宗派という分類、血液型という分類、体型による分類、好みによる分類・・・・・数え上げれば切りがない。

この種の分類のいくつかを信じている人は多い。
例えば、ある人物を取り上げて知る限りの分類を試みたとしよう。その人物を特定するような特徴に行き着くのだろうか。分類の条件が1つや2つであれば理解した気になれるかもしれないが、分類を3つ、4つ、5つと重ねて理解を増そうとすると、逆に理解を阻まれるというパラドクスに陥ることは、容易に予想される。

分類の底流には差別意識という困ったものも内包されている。
分類とは“物”や“者”の共通性を見出す作業でもある。共通な点を持つものがグループ化され、異なるものはグループから除外となる。
いじめなんは、子どもという特定の時期の話ではなく、大人の世界でも常態化している問題であるのは言うまでもない。

日本語の「わかる」は「分ける」から出たといわれ、「あの人は分別がある」というのは、思慮にとんでいると、良い評価を意味する。
しかし、判断とはものを半分に断ち切ることであり、分析とは、分を析(さ)くことである。理解とは理(すじめ)にしたがって分解することである。このように言語による思考は一つのものを二分する、もしくは、分類することで理解しているわけだ。

人間は理解できない物や者を無意識に恐れる。つまり、恐怖から逃れるために、なんとか「わからない」を克服したいという思いを持つのだろう。
科学的思考には分析と統合がある。しかし、人間の頭、胴、手足をバラバラに分解し、再びこれを一つにつなぎ合わせ同じ形体に戻すことは可能であるが同じ人間ではない。すでに生命は失われているだろう。

ビジネスの世界では、ある人を知るために事前のリサーチにおいて情報を集め、人物やその特徴を知るということをする。面白い話もある。世界のITをけん引するGOOGLでは、新入社員の採用を決める際には、現メンバー全員の面接を受ける必要があるらしい。そして、一人でもNOであれば採用しないという。
GOOGLでは多くのスタッフが瞑想を取り入れているとも聞く。

この2つの事実は大変興味深い。なぜならGOOGLのような企業こそペーパー試験のような知識を試す試験科目や、過去に何を学んできたのか、その人物を分類しがちなキャリアが重視されていると思いがちであるし、瞑想のような一見非生産的な行為に時間を割くような人々ではないと考えがちではないだろうか。

では、彼らは何を信じているのだろうか。
それは、自身の「直観」である。
おそらくは瞑想も直観を磨くための取り組みである。
荘子は、このように考えていた。「生きた事実、ありのままの真実をとらえるためには、あくまでもそれを一つのままに、全体性においてとらえるほかはない。それには分析、分類によらない直観があるだけだ」
直観は直接的な体験であるから、これを言葉で表現することは困難である。
ありのままの真理への通路は、体験的直観にほかならない。



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