幸福、満足というものは他人との比較や相対的なものではありません。自身が自身の内に感じる絶対的な感触です。味方も敵もけっして外界にはなく自身の内にあります。しかし、それと向き合うには勇気、鍛錬、忍耐強さが必要です。
大地には国家の境界線も、私の家と隣の家の境界線も本来はありません。それは人間が引いた線です。そのような見えない境界線は宗教、人種、国家、企業、学問、知識、情報、価値、技術と至るところに存在します。
そして驚くべきことに、境界線はけっして他者が引いたものだけではありません。それは、自身が引いているものもあるのです。その境界線とは何処から始まるのか。私=心(精神)と自身が向き合い、気づき、目覚め、自覚する所から人生は始まります。
灯り会は、そのように生きる人々への場の提供、具体的な方法の提示、その道を歩むための支援をしています。
統合されるべきは世界の方ではなく、私の心(精神)の方なのです。慈愛に満ちた世界が実現されるためには、まず私の心(精神)がそのように在らなければなりません。
灯り会は「覚り」に至るため「道」を歩む人々が集う場です。究極の「覚り」の形には、お釈迦様がおっしゃる通りに「涅槃」というものがあります。しかし、「覚り」は、それだけではありません。日々の暮らしや人との関係の中でふっと自身に気づき、目覚める。これが一つの「覚り」の形です。
このような「覚り」は、あなたが自身に執着することなく素直にありのままをみようとすれば比較的頻繁に訪れます。それはあなた自身にとって新鮮な体験です。心(心象)が外に起きる現象とシンクロするようになってきます。そして、やがて自覚するに至ります。自覚すれば葛藤は消滅します。葛藤が消滅すれば晴れやかな自由が訪れます。
「覚りの道」とは「覚り」の一連のサイクル繰り返しを通し、心(精神)の成長、成熟へ向かうことです。「覚り」は大きなものや小さなものがあります。ステージが上がる毎に、とらわれ、こだわり、かたより、まよい、執着、欲望から解放されていきます。
このような日々刻々の修養によって、生命の遺伝的な流れと他の生命との繋がりの「いま、ここ」という地点に自身が存在していることを、はっきりと自覚するに至ります。その時、自身に孤独などというものは存在しないこと、生命の使命とは何か、自身の使命とは何かを自覚します。
存在の自覚に至れば、すべての境界線消滅し、この世のあらゆるものとの繋がりを実感します。他者への愛と慈悲も自然な流れの中に感じることになります。やがて、あなたはあなた自身の中に仏性や神性と呼ばれるものがあることがわかります。
灯り会は、どこまでも個人の心(精神)の成長、成熟への取組みです。取り組む人々の緩やかな連携を取りますが、特定の政治的、宗教的、思想的な目的を持ちません。自身の心(精神)の良い意味での変容、成長、成熟こそが人類全体の意識変容への貢献なのです。
灯り会の灯りは、「自灯明、法灯明」が修養の中で最も肝要であると説いたお釈迦様の心根と私が自身の修養中に迷い、彷徨なかで感じ取ったものが同じものであったことに共鳴、感動し命名にその一字を頂戴いたしました。
行動を起こすことは、それ自体がすでに覚りの一つかもしれません。